守田寶丹
      〜寶丹のルーツはオランダ人医学者
           A.F.ボールドウィン博士の処方〜

                 株式会社守田治兵衛商店

●3世紀余の伝統
「宝丹(寶丹)」の製造元である株式会社守田治兵衛商店の創業者・初代守田治兵衛は、摂津国(現大阪府)より、延宝8年(1680年)に江戸へ出て、薬舗を開き「貞松堂」と号しました。爾来、血統連綿として13代現社長守田敬太郎に至り、江戸最古の薬舗として平成の現代へと引き継がれています。 上野池之端仲町にあった江戸時代からの店舗は、大正12年の関東大震災で全焼。その後、昭和初年、一部三階建ての堅牢な洋館建てとなり、平成5年、8階建ての現社屋が完成しました。


九代目守田 治兵衛の書

●明治4年、官許第1号の公認薬
寶丹の創薬は9代目治兵衛が文久2年(1862年)オランダ人医学者A・F・ボードウィン博士の処方からヒントを得ました。さらにいろいろな症状の疾病に用いて、薬効につき研究し、改良を重ね、発売にふみきったと伝えられています。その当時、諸種の悪疫が流行し、特に虎列刺(コレラ)の治療薬というより予防薬として重宝されたようです。 明治3年、新政府による売薬取締規制の公布時、寶丹は9代目治兵衛が早速申請し、官許第1号公認薬として許可されました。 ボードウィン博士という人物は、オランダ陸軍軍医学校を卒業後、母校で教官となりました。幕府に乞われ来日後、長崎で西洋医学を教え、その後、大学東校(後の東京大学医学部)の教壇に立った人です。

また、上野寛永寺などの焼け跡に医学校建設の計画があることを知り、自然破壊を憂慮し、政府に自然公園とするよう提言しました。上野の森が保存され、公園が誕生したわけです。上野公園生みの親として博士顕彰の胸像が「竹の台噴水」脇の森の中に建てられています。

右側からパッケージの変遷

  一方、販路は拡大し、明治6年には、早くも清国の上海、香港、広東及び遠くは米国などへ輸出が行われていました。まさに本邦製薬業界の海外輸出の先駆者として活況を呈しました。 明治10年の西南戦役の際には、軍旅必携薬として指定を受けました。さらに日清戦争や日露戦争でも従軍の兵士は皆、寶丹を携帯したとのことです。
●時代を先取りした宣伝
9代目治兵衛は時代を先取りした、なかなかの宣伝マンでした。自ら鳥差風に変装し、各戸の窓から寶丹の効能書を差し入れ、ビラ配布を行いました。また、明治10年には『芳譚雑誌』なるPR誌を出版。30年、40年代の雑誌で寶丹の広告の出ていないものはないというほどで、明治時代にこれだけの広告活動を展開した会社は他に類を見ないものでした。当時としては珍しい絵入りの広告が明治10年7月26日付『東京日々新聞』に掲載されているなど一例です。歌舞伎中で役者に寶丹のセリフを入れさせることにも成功しています。


 PR誌 寶丹経験録第一集
  (明治24年11月出版)

また古典落語『なめる』は寶丹の宣伝のために創作された噺で、お調子者の八五郎に若い女の乳房の下のおできをなめさせて治すという艶笑噺です。ショックで失神した八五郎に「池之端の守田で寳丹を買ってきたところだ」と友達がわざとらしく説明し、気つけ薬としてなめさせようとする内容で、「もうなめるのはこりた」のおちが付いています。 9代目治兵衛は、人物的にもユニークで、神仏参りを欠かさず「番頭小僧大名神」と“奉公人は神様だ”とし、売上げの一部を小僧にまで配るなど、宣伝と相まって寳丹が爆発的に売れたのも、これらのことによるものかと考えられます。


●伝統薬の効能
昭和60年頃までは赤褐色の半練り状の薬でしたが、厚生省の薬効再評価で、龍脳、寧朱、ヨクイニンなど除外され、現在の散剤−宝丹となりました。時代の大波を被りながら、寶丹は現代に生き残り、最近の伝統薬を見直す気運にものって多数の方々に利用されています


現在の宝丹