
|
|
浅 田 飴 株式会社 浅田飴 |
|
| ■良薬にして口に甘し 「浅田飴」といえば、ドロップタイプの「固形浅田飴クールS」「固形浅田飴ニッキS」「固形浅田飴パッションS」の3種類が主力製品ですが、そのルーツは、水飴タイプの「浅田飴」にさかのぼります。 |
|
|
|
「良薬にして口に甘し」といううたい文句とともに、「たん、せき一切、肺病の持薬、ひきかぜ、よわき人、老人の滋養薬」として売り出されたのは、明治20年のことです。当初は「御薬(おんくすり)さらし水飴」と称され、桔梗、薬用人参、麻黄、葛根、桂皮油などが調合されたものでした。 この処方を創始者堀内伊三郎に与えた浅田宗伯は、信濃国で代々医業を営む家に生まれ、天保3年、京都に出て中西深斎に傷寒論を学び、頼山陽の塾に入って儒学を修め、その後江戸で安井息軒らに儒学を学び、天保7年開業。天保9年、郷里の高遠藩の藩医となり、慶応2年には幕府の医官を経て、維新後に東宮殿下(後の大正天皇)の侍医となりました。維新以来、西洋医学が主流となった中で、漢方医学の最後の大家といわれた人物です。 |
| 浅田宗伯は同郷のよしみから堀内伊三郎に処方を伝授し、伊三郎が「御薬(おんくすり)さらし水飴」として明治20年に創製発売しました。その2年後、浅田宗伯の名にちなんで「浅田飴」と改称、息子の初代堀内伊太郎の手により売り出されたのが「浅田飴」の始まりです。 創業時の店舗は神田富山町にありましたが、明治22年に神田鍋町に移転し、浅田飴本舗堀内伊太郎商店が誕生しました。その後、明治30年に現在地の神田鍛冶町に移りました。 |
|
| ■ユニークな宣伝活動 売り上げが伸びた秘訣は、初代伊太郎が展開したユニークな広告宣伝にあるようです。 冒頭に紹介しました「良薬にして口に甘し」の他にも「すきはらにめし、たんせきに浅田飴」という文句も作っています。これは歌舞伎の「先代萩」のなかでもとりわけ有名な”御殿の場”の台詞を基に作ったものです。 また、「引き札」といわれる乳人政岡を用いた版画のチラシ広告も考案しており、現在も本社に残っております。 |
|
| ■機械化と形状の改良 大正4年には携帯に便利な「固形浅田飴」の発売も開始しました。当時のものは、水飴状の浅田飴に寒天、砂糖等を加えてゼリー状とし、サイコロ形に切って澱粉をまぶして乾燥させ固形としたもので、現在のものとは全く趣の異なるものでした。しかしながら、この製品は夏期には長持ちせず、失敗に終わってしまいました。 |
|
|
|
|
大正11年、スペインかぜの大流行で浅田飴は飛ぶように売れ、製造の機械化が企てられましたが、大正12年、試運転の段階で関東大震災に襲われました。震災後、「浅田飴」製造の機械化と「固形浅田飴」の改良が図られ、ドロップタイプの飴にすべく度重なる試行錯誤の後、ついに艶のある碁石型の「固形浅田飴」を完成させました。 | |
| また、従来からの水飴状の「浅田飴」も巻取式の缶を導入したため漏れがなくなり、面目を一新することになりました。 しかし、悪い事は重なり、第2次世界大戦で空襲に遭い、倉庫を残したのみですべてを焼き尽くされてしまいました。 ■戦後の復興 戦後、昭和22年に宮坂醸造鰍フ中野工場を一時使用し、会社も法人組織に改組し「浅田飴」の製造を再開いたしました。昭和24年に豊島区(現本社分室)に目白工場を設け生産増大に伴い、昭和39年、東村山市に工場を新設し、現在では「浅田飴」のほか「浅田飴」で培った水飴の技術を活かして、ダイエット甘味料「エリスリム」「シュガーカット顆粒ゼロ」「シュガーカット」等の製造・販売も行っています。 ■長寿の秘訣は安心感 「良薬にして口に甘し」といううたい文句で広まった「浅田飴」ですが、あくまでも医薬品である故、その有効性・安全性については現在も学術レベルでの研究が続けられています。「浅田飴」の長寿の秘訣は、人の好みや時代は変わっても、薬としての本質は何も変えていない「安心感」にあるのではないでしょうか。 |
||